[ロングインタビュー]工藤商事①  自己破産を経験し、再度運送会社の経営に挑む

建材商社や農協、物流子会社などを顧客として事業を展開している工藤商事(工藤英人社長、夕張郡)。工藤社長は30歳で父親が経営する運送会社の後を継ぎ、積極的な営業により規模を拡大させるものの、2001年に経営破綻し、自身も自己破産を経験する。
しかし、紆余曲折を経て再度、運送会社の経営者として挑み、現在、堅調な成長を遂げている。
近年は経営の指針を定め、「従業員の幸せ・豊かさ」を追求する施策を打ち出すとともに、外部コンサルタントを活用して、「従業員の品格向上」を目指している。同社長にこれまでの歩みを語ってもらう。ロングインタビュー全2回の1回目。

「そんなに意識はしていなかったが、いずれ親父の会社を継ぐのだろうと思っていた。親父は本当に働きもので、高度成長期で新聞輸送が鉄道からトラックに切り替わる波に乗った。当時4㌧車1台で月間200万円近い売上があった。新聞の休刊日は2か月に1回なので、親父の休日は年に6日しかなかった」。

大学を卒業し、すぐにこの業界に入った。道内の大手運送会社の内定も得たが、父親の紹介で札幌市の引越会社に入社。「3月は引越しの最盛期なので、卒業式も出ないで仕事をした。延々とポスティングし、土日は引越しの現場という感じで2年ほど働いた」。

父親が経営していた新北海運輸にドライバーとして入社。当時は車両30台程度の規模で、札幌市を中心に住宅がどんどんと造成される中、ユニック車の仕事を取り込んで大きく伸びていく。「大工が現場で使う仮設トイレがレンタル品として普及する時期で、この仕事が忙しかった」。
社内で昇進し、現場のほか、運行管理と営業を担当。コピー機の在庫管理・配送据付、建材の在庫管理、農産品の輸配送など仕事を増やしていき、最盛期には車両70台、売上規模も7億円程度にまで伸びた。

事業が伸びていくユニック部門の責任者を務めていた叔父が独立することとなり、会社が2つに分かれる。「分社したが、それまでの負債は全てこちらで引き受けたため、資金繰りが厳しくなった」。車両も25台くらいにまで減った。

分社後しばらくして30歳で社長に就任。「自分も稼がないと資金繰りが苦しいので、社長であってもかなり現場に出た。当時は『こういう会社にしたい』といった理念も特になく、ひたすら目の前の仕事をこなすだけ。仕事はあったので、頑張れば何とかなると考えていた」。
ユニックのノウハウがあったため、仮設資材のレンタル品や外壁などの仕事を獲得し、規模を伸ばす。あわせて、冷凍車を導入し、食品配送も手がける。

「分社時にはほぼなかったユニック車が5年後には20台程度にまで増え、冷凍車も7台くらいとなり、農産品の扱いも伸びた。35歳くらいまで仕事は増え、規模も拡大していくが、計画的な設備投資ではなく、案件があれば車を増やすような状態だった。資金繰りは相変わらず厳しかった」。
車両も50台を超え、売上規模も4億5000万円ほどにまで回復。「このまま頑張っていけばなんとかなる」と手応えを感じていた。

その後、ゼネコンの営業出身の人間がドライバーとして入社。土建関係に明るく、重機運搬の仕事をしてはどうかと提案される。
この提案を受けて、本格的に営業開拓をしていき、スーパーローダーや重トレーラーを複数台購入、この投資が億近くにのぼり、後の倒産の引き金となる。それなりの需要を見込んでいたが、「結果的に数字が付いてこなかった」と振り返る。

「重機運搬は単価が安いので、トントンと仕事をつなげていかなければ採算がとれない。1社2社の荷主ではなく、満遍なく色んな荷主をうまく組み合わせて1台を運行させることが必要だったが、当時はそこまで分析できておらず、見通しが甘かった。車両への多額の投資が足を引っ張り、急激に資金繰りがおかしくなった」。

これにより2001年の春、新北海運輸は約2億円の負債を負って経営破綻する。同社長も自己破産し、失業する。この時37歳だった。

従業員、荷主、仕入先にできるだけ迷惑をかけないよう事業の譲渡・譲受をし、そこで仕事がまわるよう段取りをつけた。
これにより従業員の雇用と運送業務、仕入先への支払いが続けられるメドが立った。
「退職者は1〜2人いたが、失業者は1人も出さずに済んだ。仕入先をはじめほとんどの取引先も付いてきてくれた。譲渡先の運送会社は今でも当時の部下が現場トップとして頑張っている」。

この際、行政書士や荷主、ディーラーなど多くの関係者からの力添えを得るが、「中でもタイヤ販売店の担当者から受けた恩が忘れられない」と振り返る。
当時、新北海運輸では未使用のタイヤをかなり在庫としてかかえていた。販売店では販売先が焦げ付きそうな場合、「未使用のタイヤは回収」「そのまま使用する場合はすぐに現金決済」という対応が原則だった。

担当者には倒産と新会社への譲渡・譲受の件を率直に話した結果、タイヤの回収などをせず、「譲渡先での使用を認める」判断をしてくれた。
「彼は会社には『タイヤは使用済み』と報告したようだが、その後、こちらの様子を見るために販売店の社長が一緒に訪問し、嘘がばれてしまった。それでも、タイヤをこのまま使わせてもらえるように頑張って押し通してくれた。当時、タイヤを引き上げられたら譲渡先で仕事を引き継ぐことが難しくなり、金融機関との取引もできないため、現金をかきあつめることも不可能だった。そのような中、会社の方針に逆らって、自身の職を賭してまで助けてくれた。なぜそのような判断をしてくれたかわからないが、この恩義は忘れられない。今でもタイヤはこの販売店一本と決めている」。

大方の従業員や荷主、仕入先を譲渡先に引き継ぐことができたものの、自身は失業し、自己破産の身となる。

「従業員を失業させないよう譲渡先に事業を移行することにすごく集中していて、自分の事はほとんど考えていなかった。ただ、まだ30代だったので、『体も動くしドライバーとしてやっていける』と思っていた。妻にも債務を負わせていたため、一緒に破産させてしまった。いまだに喧嘩をするとそのことを言われる」と苦笑いする。

倒産後、同じく新聞輸送を行っていた同業者に「ご迷惑をかけました」と挨拶に行くと、声をかけてもらい、この会社で従業員として雇ってもらうことになった。
「同業者に拾ってもらった。妻も旦那がサラリーマンになって安堵していた、毎月給料がはいってくるのですごく喜んでいた」。

はじめは札幌市内で管理者として勤務し、その後、管理の手腕が評価され、帯広営業所の所長として赴任、2年程勤務する。赴任した当時、帯広営業所は、かなり荒れていた。「金髪やサンダル履き、黙って会社に来ないという従業員もおり、不良高校生の集まりみたいだった。ここをかなり強硬に指導して、半年でちゃんとした営業所にした」とし、「同じ運送業界だったが、違う会社で働くことで、『きちっと組織を動かさないと会社はなりたたない』と勉強させてもらった」。

「ドライバーに稼がせたい」という思いから、自身の人脈を活用し、引っ越しなどの新規の仕事を引っ張ってくるようになった。これに対し、「ドライバーは稼げるから喜んでいたが、本社の決済を得ないでやってしまい、数字はあげたが本社からは怒られた。仕事の情報があった場合、『本社に掛け合ってから』とならず、すぐに取りに行ってしまうので、本社からはしょっちゅう怒られていた。これをネタに部下にもよくからかわれた」という。

「この会社に入社した時は『ずっとサラリーマンで行こう』と思っていたが、なかなか組織のルールに則って動けなかった。これはルールを守れない自分が全面的に悪いが、経営者の気質が強く、抜けなかったのかもしれない」。
同社では約3年のサラリーマン生活を経験するが、このような中、安定した生活を捨ててでも、もう一度、「自分で稼ぐ」という気持ちが強くなっていった。

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