[ロングインタビュー]工藤商事②  自己破産を経験し、再度運送会社の経営に挑む

工藤商事(夕張郡)の工藤英人社長は、運送会社の経営に一度失敗し、倒産させた後、ほとんどの従業員や取引先、荷主などを事業譲渡先に移行させ、自身は新聞輸送の会社でサラリーマンとして働くことになる。この会社でおよそ3年間勤務し、営業所の所長に抜擢され、将来の幹部候補として期待されるようになっていく中、再度、「また自分の手で仕事をはじめたい」という気持ちが強くなっていく。ロングインタビュー全2回の2回目。

「丸3年働かせてもらったが、とてもいい会社で本当にお世話になった。所長として荒れていた営業所の正常化を果たし、部下も育ったので、目的をひとつ達成した気持ちもあった。このままいれば『安定した生活』が見えていたが、会社のルールをすっ飛ばして、本社の決済を得ずに仕事を決めてしまうなど、社風にそぐわない動きをする自分に問題があることがわかっていたし、もう一度、自分でやってみようという気持ちが芽生えてきた。悪かったのは、会社に合わせられない自分だった」と振り返る。
そして、会社に対して「このままいると迷惑をかける。ルールに従わないで、とんでもないことやらかす」と率直に考えを伝え、退職を決断する。

この際、妻からは「離婚を切り出されるくらい」の猛反対にあい、上司からも強い引き止めがあったが、自分の思いを貫いた。約3年間の勤務だったが、会社からは退職金まで支給してもらった。

当時、倒産した新北海運輸の車両整備などを行う子会社として設立した工藤商事が残っていた。新北海運輸の元社長だった工藤社長の父親がこの工藤商事で一般貨物の新規許可を取り、地元の農産物の輸送業務などを小規模ながら行っていた。この頃、同社は4㌧車1台、8㌧車2台、10㌧車2台の合計5台の許可基準ギリギリの規模だった。
「この会社を継ごうとは全く思わず、トラクタヘッドを1台買って、自分で仕事を開拓し、ドライバーとして稼いでいこうと安易な考えで戻ってきた。この時40歳で体も元気だったので、そこそこは稼げると思っていた」。

しかし、戻ってみると工藤商事の経営状態が思いのほか厳しく、ほとんど死に体だった。「会社は親父の年金を資金繰りに入れ、社会保険にも入っていない状況で、このままだったらこの会社も潰れていた」。
「雑品屋に捨てるようなトラクタヘッドを1台買って、新北海運輸にいた時の同僚に『もう一回、仕事をはじめる』と話すと、『また潰すなよ』と言いながら、ビールの輸送や大手の下請けの仕事を回してもらった」。

工藤社長は、自分で走りながら、営業して取ってきた仕事を他の車にも回し、仕事の幅とボリュームを少しずつ増やしていく。
「なぜ仕事をくれたのかよくわからないが、これまでの同僚や札ト協青年部会に加盟していた時の仲間などが助けてくれた。1年間、自分でガンガン走り、半年間は給料をもらわず、失業手当で生活した」。
そして、およそ1年後、再度、父親の後を継ぎ、工藤商事の社長に就任する。

「収入はサラリーマン時代の方がよく、満足な給料もなかったが、仕事が楽しく、前の会社に戻りたいとは思うことはなかった。社長に就いたが、経営状態が良くなかったので、『また潰してしまうかも』という恐怖感と常に背中合わせだった。倒産と自己破産を経験したため、『借金がない』ということだけが気持ち的に楽だった」。

下請け仕事ばかりだったが、周りは工藤社長に仕事をどんどんと紹介してくれた。
社長就任した次の年には、トラクタヘッドを増車し、札ト協青年部会にいた時の仲間にお願いして、3台専属で仕事を回してもらう。
「同じ仕事をしている下請け業者からは、暇な時期に3台が急に新しく入ってきたので、『あそこは優遇されている』と冷ややかな目で見られていたが、非常に有り難かった。困っている時、助けてくれる人が出てきて、恩人になってくれた」。

仕事は増えていくが、同社が忙しい時に傭車を引き受けてくれる協力先がなかった。
「自社のパイの中での仕事だったので、大きく伸びることもなかったが、何とか頼んでいくうちに、徐々に1本、2本と仕事を受けてくれる協力会社が出てくるようになった」。
このような中、自己破産、免責から8年が経過し、金融機関からの借り入れが出来るようになる。

「自己破産をすると資産はなくなり、住む家を探しても不動産屋でことごとく審査が通らず、家が借りられなかった。いろいろ探して、大家さんに直談判し、やっと引っ越せた経緯がある。破産の履歴は残るので、『金融機関とは一生付き合うことができない』と思っていた。そのため、社長に就いた後も、資金繰りさえ回っていればいいと考え、決算は黒字でも赤字でも気にしていなかった」。

そのような中、銀行の融資が受けられる環境に戻っていたことに気付いた。「自宅近くのショッピングモールでクレジットカードの勧誘に応じて何度か申し込んでいたが、その都度、はじかれていた。しかし、破産から8年後に審査が通り、夫婦でやっとクレジットカードを持つことができた」。
このことから政策金融機関に融資を申し込む。
黒字決算だったこともあり、融資を受けられた。
「工藤商事として初めての融資で、ずっと欲しかった車庫を本社の近くに整備した。この時は本当に嬉しかった」と振り返る。

ト協の青年部会や支部などの会合にも再び顔を出すようになり、役職にも就くことで、コンプライアンスを強く意識するようになった。Gマークを取得したほか、中小企業同友会を通じて企業理念を1年かけて作成した。
「これまで理念など意識することはなかったが、経営者としてがむしゃらにやってきて息が切れていた。会社をしっかりさせたいが、どうすればいいかわからない時に、理念の勉強会の案内があり、目が釘付けになった」。

作成した理念は4つの項目があるが、最も重視しているのは「社員とその家族が『幸せ』や『豊かさ』を感じる事のできる会社づくりを目指します」という点。
「作成した理念を社員の前で発表したが、今まで理念や信念を語ったことのない経営者だったので、当初の受け止め方は極めて冷ややかだった。『全てのことは社員に還元するため、そのために会社の存在がある』という思いを真剣に伝えた」。
「理念をつくったから簡単に会社が変わるものでもない」というものの、コンプライアンスの強化、運賃アップ、新しい車両の導入、評価制度の導入を運用など、理念に沿った施策を着実に実行してくことで、収益も改善してきた。
「従業員も理念に掲げた会社に少しずつ向かっているような感覚は理解してくれているはず」と受け止めている。

また、「従業員の品質」を高めることを目的として専門のコンサルタントに依頼し、毎月研修を行うようにした。
「輸送のノウハウや技術というのは目に見えるものだが、現場で『この人だ』とお客様から指名され、惚れてもらう、これが品質と捉えている。『人として信頼してもらえるドライバーを育てる』というのが一番肝心なところ。品質を高めて、お客さまから適正な運賃を頂戴し、それをきちっと従業員に還元する。このような好循環によって、理念にもあるとおり、社員の幸せを追求したい」。

近年は毎週月曜日、朝早く出社し、自ら始業点呼を行っている。「ドライバーと普段言わないような話もして、感覚的に距離が近くなった感じを受ける。たまに遅刻したりしているが、この辺りが自分の甘いところ」と笑う。

「倒産させた時の自分と比べ、経営者として何もかも変わった。当時も一生懸命やってはいたが、経験値もスキルも足りなかった。倒産を経験して、苦労も多かったが、ある意味すごく勉強させてもらった。事業意欲が失せてしまうこともなかった」。
工藤商事に戻った時、車両5台の規模だったが、現在、シャーシを含めて車両は約60台、エンジン付きの車両は18台となった。農産物一本だった仕事も建材、園芸資材のほか、音楽イベントの設営など幅広く展開している。

「会社を潰して自己破産すると、『陽の当たるところには出てこられない』と考えていたが、周りに寛容な方がおり、自分を受け入れてくれたから経営ができている。人の有り難さがよくわかった。自己破産の免責決定通知の書類はずっとデスクマットの下に敷いている。常に目に入るようにし、自分を諌めている。苦しかった倒産・自己破産の経験は、絶対にしない方がいいが、ある意味大きな勉強になったのも事実」と受け止めている。

今後は「小さな優良企業を目指したい」と話す。「利益率にこだわり、周辺でドライバーの給料が一番高い会社。そんな会社にしたい」。

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