[ロングインタビュー]ジャスト・カーゴ① 債務超過の会社引き継ぎ 住宅資材・設備等の共同配送の仕組み構築

北海道を中心に住宅メーカー、住宅資材・設備メーカー、製材・材木工場などを顧客として幅広く事業を展開しているジャスト・カーゴ(石狩市)。
住宅資材・設備の共同輸配送の仕組みや、住宅資材・内装材を部屋ごとに現場まで運ぶ仕組みを道内でいち早く構築するなど、物流効率化のための提案型営業を得意としている。
清野敏彦社長は平成元年にドライバーとして物流業界に入り、同6年の同社立ち上げの際は創業メンバーの1人となった。その後、受注量の急減によって会社存続が危ぶまれる中で事業を引き継ぎ、資金繰りや借金で大きな苦労を経験する。同社長にこれまでの足跡を語ってもらう。全2回の1回目。

「平成元年に札幌市西区に本社がある運送会社の営業所に友達と面接に行き、ドライバーとして採用された。当時は20歳そこそこで、この会社の4軸低床の大型ウイング車がただ単純に格好良く見えた」。その営業所の責任者が、後にジャスト・カーゴの創業者となる人物だった。

荷主の大手住宅メーカーは長野県松本市に工場を持っており、この配送が現地運送会社の都合で上手くいっていなかった。「手伝いに行ってこい」ということで、入社1週間程度でトラックもろくに運転したこともない中、長野県に行くことになった。期間は3カ月間ということで、先輩2人、新人2人で向かった。

「羽田空港から電車で大宮まで行くと、何故かここで降ろされた」。大宮駅の外には先に手伝いに行き、3カ月が経った先輩がトラックで乗り付けており、「これに乗って松本に行くように」と言われた。その場でトラックに乗せられて松本まで行き、アパートの1室で共同生活をしながら4㌧車で運送業の仕事を本格的に始めた。
この工場は配送エリアが関東、北信越、東海と広く、「月曜から土曜まで夜に走って朝に現場で荷物を降ろし、帰ってきては積み込んでまた走る」、そんな生活だった。
3カ月が経ち、次の人間に交代という話になった時、「北海道から次に行く人間がいないので、もう少し頑張ってくれ」と言われ、独身だったこともあり、これに応じた。
その後3カ月間仕事をすると、今度は「そっちで本格的にやったらどうだ」という話になり、そのまま松本で腰を据えて働くことになった。期間は3年にものぼり、この間に正式に営業所として立ち上げた。

3年後にようやく札幌に戻ると、大型車を運転するようになり、荷主の工場移転に伴って営業所も石狩市に移転した。
同6年に営業所のトップが独立する。新会社は、これまで携わってきた住宅メーカーの仕事を継続することになったため、新会社での勤務を選択した。こうして平成6年にジャスト・カーゴが設立され、そのタイミングで車から降り、積み込みや配車業務を担当するようになった。

当時のジャスト・カーゴは、この住宅メーカーの仕事だけを専属にやる会社で、売上高の約95%は荷主1社に依存していた。「輸送協力会社もおらず、ほぼ自社便だけ。業界内で他社との接点もなく、傭車をお願いしようとしても、どこに電話していいかわからないような状況だった」と振り返る。

同8年に常務に就任するが、「前の会社の松本営業所が立ちいかなくなった」との情報が入る。荷主からも応援の要請が来たため、責任者として松本に再度赴任する。
「2度目の松本では、荷主を含めて周りの人にかわいがってもらい、トヨタ生産方式をはじめいろいろな勉強会に連れて行ってもらった。厳しい指導を受けることもあったが、目からウロコが落ちるような発見も多かった。この時に学んだ多くのことが、効率的な物流の仕組みづくりを提案する際に大いに生きてくる。また、この時に接してもらった多くの人にも助けてもらうことになる」。

本州で物流を学ぶ中で、物流は「お客から依頼された通りにモノ運ぶだけではない」「必要なモノを、必要な時に、必要な分だけ届けることが本質」などと教わった。そして、それをいかに効率化してサービスを提供するかが物流事業者の腕の見せ所であり、顧客が喜ぶことだとだと学び、様々な提案を行うようになる。

当時、同社が請け負っていた本州のハウスメーカーの仕事では、1棟に対して4㌧車5〜6台が現場に行き、荷物を降ろすのを順番に待つのが普通だった。最後の車は夕方4時くらいまで待つが、朝に現場に着いても運賃は変わらなかった。
こういった状況の中、最初に「現場の交通整理の誘導をうちのドライバーがやります。その分、多少上乗せしてほしい」と提案し、これを了解してもらう。

その次は「ドライバーが家を建てられないか」と考えた。トラックの分だけ人がいるため、「施工の手伝いをし、人件費をもらう」よう提案。運送側は運賃プラスアルファで助かり、現場は棟数が伸ばせるのでお互いにメリットがあった。
ドライバーを教育し、最終的には1棟の躯体をつくれる体制を築いた。「3年間で1000棟くらい施工したが、このようなドライバーによる施工部隊はまわりでは相当珍しかった」。

しかし、竣工数が減るに連れ、施工部隊の仕事は波動が大きくなり、平準化も難しくなる。その後、同16年に主要荷主の業績悪化のあおりを受け、同社は本州から撤退、再度、北海道に戻ることになる。

同社は当時、まだ荷主1社体制を続けており、急激な受注減少に伴い、資金繰りに行き詰まっていた。この荷主の北海道での輸送会社は同社だけだったため、荷主や地元企業などが支援する意向を示す。ただ、「創業社長を交代させる」というのが条件。これに「会社を助けていただけるなら、身を引く」と創業社長は応じた。

「スポンサー筋から誰か社長として来てくれるという話だったが、ふたを開けると『送る人いない』となり、常務であり実質ナンバー2として現場を仕切っていた自分が呼ばれ、同17年の年明けに社長に就くよう依頼された」。突然の話だったため、その場で返事はできなかった。「社長は典型的なカリスマで、仕事のアイデアや人を引っ張る力などすごいものがあった。自分が経営者として務まるか悩んだが、最終的に他にやる人がいなかったため引き受けた」。

実はこの時、本州に赴任していた際に付き合いがあった複数の物流企業から「東京に来ないか」と誘いがあった。「会社の規模も大きく、当時の自分よりも高い給料を提示してもらい、自分のことだけを考えれば、その方が楽なことは自明だった」。しかし、社員を置いて、自分だけが会社を出て行けないと考えが固まり、「やれるだけやってみよう」と覚悟を決めた。

同社は立ち上げ当初、車両15台程度で、この交代時期の前には北海道と本州で40台くらいにまでに成長、本州を撤退したものの、北海道で約30台を保有していた。
また、会社は債務超過に陥っており、8億5000万円程度だった売上高は半分近くにまで落ち込み、非常に厳しい資金繰りを余儀なくされた。銀行からの新規借り入れもできなくなっていた。

社長に就任したが当然、給料はダウン。半年程度は無給だった。それだけではなく、個人のお金を会社に入れ、サラ金からも、自分の親からもお金を借りた。
「そのような中で各方面にお願いして、支払いを待ってもらったり、入金を早めてもらったり、とにかくいろんなところに頭を下げて、資金繰りだけを必死にやっていた。お金が足りなくて、日々ほぼお金のことしか考えられず、業務は部下に任せ、安全や教育について考える余裕もなかった。『今月はいくら足りない、来月はいくら足りない』と資金繰りのやりくりを毎日やっていた。嫌になるくらいお金の話ばかりだった」。

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